On the yellow guardrail

正字正かなユーザー刑部しきみの清く正しいつつましやかなブログ

草原の高塔とラナセス

洞穴の民の少女ラナセスは、おおよそ十五歳になったので、一族に代々伝わるひとつの試練を受ける事になった。
住み慣れた洞穴の村を出て、砂漠を只管南へと向かう。そして、谷の間を渡り、乾いた浅い泉を過ぎて、低い草が生い茂る草原の中に立つ塔の頂上に湧く貴重な成分を含有した湧き水を持って村に帰らなければならない。塔にたどり着かず死ぬ者もいる。塔にたどり着いても水を持ち帰る事が出来ず、村で最下層の生活を余儀なくされる者もいる。つまり、水を沢山持ち帰ることが出来れば、それは村での身分を保証されるという仕組みになっていた。


七日分の食料と水とテント、水を汲むための皮袋を沢山持って、ラナセスは南へと向かった。
洞穴の外にある崖を滑り降り、初めて見た『大地』はラナセスの想像以上に荒涼として、ひとつ息をするだけで地形が変わってしまっているかのような恐ろしい場所だった。最初の日の夜、ラナセスは温い地面に顔を伏せて、泣いた。月も出ない夜だった。そして、泣きながら朝を迎えた。
その次の日に、なだらかな山々が見えた。だが、相変わらず大地は今にも枯れそうな細い草が点在するだけで、景色は殆ど変わらないようにみえた。ラナセスは退屈を覚えながら谷を目指していたのだが、ふと、山の頂上に目をやると、其処には赤い色の果実のなる低木が育っていた。どうせ真っ直ぐに塔を目指してもつまらないと思ったラナセスは、一日かけて山に登り、甘酸っぱい香りのする赤い果実を一つだけ食べ、木の下で眠り、半日かけて下山した。


食料が半分より少なくなった頃、ラナセスはようやく枯れた泉の傍へ行く事が出来た。湿った泉はかすかに悪臭を放っていて、ラナセスは近寄るのを止め、草原へと足を踏み入れた。
草原は思った以上に草が育っていて、膝下に絡みつく草を足で踏み分けながら、塔へと進んでいく。
くすんだ色の塔は、静かにそびえていた。近づくにつれて、その高さがわかる。「恐ろしい、神の塔は。洞穴の民が持たぬ、忌まわしき御技」という村人の言葉を思い出す。全くその通りだった。怖い。だが、行かなければならない。洞穴の民の女が全て通ってきた道。大丈夫、此処まで着たからには、少なくとも、死なない。荷物袋の紐を汗ばんだ手で握り締め、唇を噛んで、歩を早めた。恐怖を後ろへ置き去りにするかのように。


塔に近寄って、荷物袋を地面に落とすように置く。塔の周りには一段と高い草が生えていて、かなり近づきにくい。
触れる位近くに来たところで、両手を伸ばして、塔にそっと触れた。触ったことの無い感触。硬いけれども柔軟性に富んでいる。表面が乾いて、中がまだ緩い粘土に似ているような気がした。塔の周りを一周したけれど、入り口は見つからない。昇った女、待った女、色々居るらしい。だが、どれが正解なのかは決して口外してはならない秘密なので、恐らく、どちらも間違いなのだろう。ラナセスは塔を見上げながら、目を細めた。継ぎ目が存在している事は目視できる。けれども、ぴったりと縫い合わされたかのようにくっついていて、とてもその継ぎ目から入る事は不可能のように見えた。

 何処かに入り口があるはず、でなければこんなものは作れない――塔ではなく、私達のように洞穴を持っていたとしたら?

だとしたらこの塔はただの飾りかもしれない。本質は此処に無い?
ラナセスは塔を離れ、更に南へと歩いた。戻っても何も無い事は証明されている。だとしたら、目指すのは、その「先」しかなかった。


「あった……」
そこは、昔使われていた洞穴の跡のような場所だった。穴は殆ど塞がっている。ラナセスは硬く閉ざされた入り口を両手で無理矢理こじ開け、どうにか体だけをもぐりこませる事に成功した。狭い。暗い。おまけに湿っていて、酷いにおいがする。何かが腐ったような臭い。それでも、身をよじりかがめ這いながら、奥へと進む。
突然、広い場所へ出た。相変わらず暗いのだが、もう身をかがめずとも済む。しかし、壁が圧迫するように動いている気がして酷く不気味だ。とりあえずその辺を歩き回っていると、足元の感触がおかしい場所に気が付いた。柔らかい地面の中に、大きな木の実が埋まっているような、固いふみ心地。足で確認していたその時――

辺りの壁が一斉に蠢いた。ぐにゃぐにゃと脈動するように蠢く壁。壁。圧迫、収縮、拡張を繰り返し、立っていられない程の衝撃が波となってラナセスを襲う。彼女は先ほど進入した入り口へ向かって走り出した。迫り来る壁を押しのけ、転がり、押しつぶされそうになりながら、這う這うの体で洞穴を抜け出た。そして、辺りを見回して驚愕した。


「水だらけだ……」
体中をしっとりと濡らす雨は、確かに塔の上から降り注ぐものだった。草原に、枯れた泉に、砂漠に、塔の力の及ぶ範囲全てに等しく降り続けていた。そう、彼女は見事正解を引き当てたのだ。
「凄い」
少女の体はふるっと一度大きく震えた。洞穴で汚れた体を洗い流す水の冷たさではなく、降り注ぐ雨が力に満ち、命を満たし、穢れを祓う事を体で知らされたからだった。ラナセスは洞窟の近くに放られたままの荷物袋を持って、枯れた筈の泉まで走った。地面に足を取られる。転倒して、その弾みで起き上がり、足をもつれさせながら走り続ける。


泉の水は許容量を超えて、溢れかえっていた。先ほどの悪臭も、もうしない。恐らく、溢れた分が泉の底を洗い流していったのだろう。ラナセスは荷物袋からありったけの皮袋を出して、夢中で水を汲んだ。十ほど用意した皮袋は、すぐに一杯になったうえに、泉はまだ沢山の水を湛えていたので、彼女はそこで水を飲み、水浴びをし、帰路に着いた。


彼女が十の皮袋全てに水を持って帰った事で、洞穴の村は大騒ぎになった。誰もが、彼女が一体何をしたのか知りたかったが、誰も口には出せなかった。口に出してはいけなかったからだ。
ラナセスはその日のうちに新居である新しく大きな洞穴を用意され、最高の待遇を受ける事になった。
彼女はその扱いに喜び半分、悲しみも半分だった。素晴らしい待遇に不満は無いが、たった数日間で村人がラナセスを見る目がすっかり変わってしまった。親友だった子は彼女が道を歩くと目を伏せ、母親は自分の手柄でもないのに威張っている。そして、あの泉で沐浴した所為か、ラナセスは体が別人のように背が高くなり、胸が豊かになり、そして、容貌は月の女神のように美しくなった。
環境も自分の外見も変わったけれど、中身はただの十五歳の少女。だが、誰もがラナセスをそうはみてくれなかった。


彼女は、悩んだ挙句、三日月の輝く晩にこっそりと故郷を捨てた。
何年、何十年たっても、ついぞ故郷に帰らなかった彼女は、あの高塔の下で、たった独りで暮らし、たった独りで子供を生み、殖やし、高塔の民の祖として生き、一人の女として、死んだ。