On the yellow guardrail

正字正かなユーザー刑部しきみの清く正しいつつましやかなブログ

証言本はソースとなりうるか

あまり上手く考えが纏まらない話なので書くのを保留していたけれど、寝すぎてしまって目が冴えてしまっているので書く。
この前のたかじんは「沖縄集団自決問題」の話だった。
田嶋女史が証言本をソースにぎゃんぎゃんとお騒ぎなさってたけれど、それってどうなんだろう。体験についてどう思うかっていうのは、今の価値観にも左右されるし、それこそ今の利権も絡んでくる。本当に云いたい事や事実ばかりじゃないんだよね。捏造がなかったとしても、沈黙する事ってのは、普通に生きていてもよくある事でしょ。勿論、例えば公文書の真偽の裏づけにはなるだろうけれど。公文書だって嘘書いてないとは限らないよねー、んじゃあ物的証拠? ああこれも捏造効くか。一応。真実は複数だけれども事実は一つだっけか。真実の寄り合わせすり合わせ明らかにおかしい意見を廃して、で、大体こうだろうって所が事実(ただし大いに輪郭線はぶれている)ってイメージだなぁ。
証言本で思い出したんだけれども、上の話とは全く関係ない。
とある*1被差別部落関連の本を読んだら、別の被差別部落団体への遠まわしな非難とか、身内――自分の団体の人間への賛辞みたいなのとか、なんというかすっごい何だこれー気持ち悪ーって思ったの思い出した。別の意味で生々しかったわい。
大体ね、本が存在する事やそれが多い事だけが事実足りうるなら、クトゥルー神話が事実になりかねないでしょ。私が山口方言研究家ですって名乗るようなもんでしょ、Wikipediaを真実絶対のソースですって云ってるようなもんでしょうが。ないわー。

*1:書名は伏せる