On the yellow guardrail

正字正かなユーザー刑部しきみの清く正しいつつましやかなブログ

自己嫌悪する? そこまでの価値は自分には見いだせない。
活字を読もうとすると目が落ち着かないのでアウトプットするしか無い。現在進行形の文字は楽でいい。追うのはその打鍵された文字だけで済む。読み返す事すらしない。18の頃の私がこちらをみている。その目には諦念しかない。過去と同様未来に価値はない。一秒一秒を刻む時計の針の単位で価値が変動する不安定な相場の底上げをする事はもはや諦めている。15の頃の私はもはやこちらを見ようともしない、12の頃の私は、早く死ねと私に云う。そうだろう。私は彼女と約束したのだ。約束を違えるのかと問われる。違えるつもりはない。全てが無価値であると12の私は気がついた。漸く。生きる事も死ぬ事も、平等に無価値だ。そして14の私は、天井を見ている。夏のアパートの天井。諦めていたからこその結果があの天井と、この視線だ。吐き気がする。逃げ出す事は出来ても無意味だ。やり直せないのではなく、塗りつぶすのでもなく、あの結果は存在する。忘れているのだろうか。覚えているのだろうか。興味がない。結果だけがある。結果主義万歳だ。殺された貴方の事を考える。貴方が生きれば良かったし私が死んだ方が数倍はマシだっただろう。だがこのザマだ。笑えばいい。やさしい人だったから、あなたがたは笑わないだろう。生きれば生きるほど、嫌いな日が増えてゆく。火葬場の臭いがする。有罪の貴方を断罪するのではなく私は私を咎人として殺す、その為の定義ははるか昔に拵えた。そうしなければ私は約束を違えた上で死んだだろう。12の私を殺すか、今の私が死ぬか。どちらも同じだ。とてもつまらない。どちらにせよ死にながら生きているんだ。未来を殺すか殺さないかでしかない。そしてどちらが死んだとしても同じだ。だから云っただろう価値がないと。無意味だ。クスリでも飲んで寝ろ。つまらない。