On the yellow guardrail

正字正かなユーザー刑部しきみの清く正しいつつましやかなブログ

貴方の感情は私の勘定じゃない

感情の共有化は無理だし、喜怒哀楽と云えどそれは単純なものじゃない。そんなでかい括り方は危険なんじゃないのか。
「単純なモノを与えなければ観る側は理解できない」とか、そういうのって、作り手の驕りってか、バカにしてるとしか思えない。私は勿論「自分の事を判ってもらえなくても良い」と常々思ってはいるが、それは他者と感情を共有することを、とうの昔に諦めたからだ。感情を露呈する事はもう放棄した。あるのは思想と知識と偏見だけだ。私は、己の出力装置のあまりの貧弱さに泣けてくる。だからこそ、ある一部を切り離し諦める事で、突出させる事を選んだ。
単純に理解してもらいたければ、独自性を放棄すれば良い。何処かで観た何かを提出すれば、一応「誤解しにくく共有できそうな妥協点」は出せる。でも、それは模倣でしかないし、そういうのにはそういう事をしたい時なりの理由が要る。そういう理由が提示されないのならば、私は私のもつものを精確に正確に作る。後からそういう理由を出されるのは、本当に嫌な事でしかない。
貴方が私に指示を出したいならば、まず「誰の為の」「何の為の」を明確にして貰わないと、後からお互い不愉快な思いをするだけで終わる。
曖昧な指示は危険だ。象を冷蔵庫に入れる手順を実際に試みようとするのに、象を入れる大きさの冷蔵庫を用意するのか、冷蔵庫に入るサイズに象を小さくするのか、二次元で表現すればいいのか、三次元で表現すればいいのか、その言葉はただのものの例えなのか。そこをはっきりさせなさい。