On the yellow guardrail

正字正かなユーザー刑部しきみの清く正しいつつましやかなブログ

葬列タイムライン

何度か秋葉原に立ち寄るうちに、殆どの人間が死体にしか見えなくなってきた。それが二次元だろうが三次元だろうが、動こうが寝てようが、立体だろうが平面だろうが、最早関係ない。死体の群れだ。ホームレスと思しき人が生きているのか死んでいるのかわからないまま、大荷物の傍でうなだれている。彼らの事を行旅死亡人データベースに載せる日が来るのかもしれない。都会に着てから、死ばかりが目に付くようになった。ビルの死はあっという間に生まれ変わりを果たす。新陳代謝の活発な都市。死んだようによどむ、平坦で流れの見えない川。底は濁っていて見えない。昼間は人を呼び込む店員の声、ビラを配るメイドの群れ、何処かで聞いた事のある曲、狭い店。圧縮されている土地。活発であり死んでいる。秋葉原はそこそこに慣れた。小銭で切符を買い、秋葉原のある駅で降りて、ふらふらと目的も無く彷徨う事を何日か繰り返した。欲しい物は無い。気になっていた安いイヤホンだけ、買った。
Twitterで「秋葉原なう」と呟いたとして、それが何になる訳でもない。私は誰も顔も知らないし、誰も私の顔を知らない。
テオリアハウスは、とあるオフィス街の外れにあって、夜は空よりもビルの影の方が黒く、いつも風が強い。部屋では時折聞こえるサイレンの音以外の音はなく、薄ぼんやりとした明かりが常に窓に映る。残されたのか作られたのか、そこかしこの公園には樹木があるが、なんの感慨もない。ジオラマと何が違うのか。
私には「生きている」と「死んでいる」の境界が何処なのかわからない。今日日、一度「心臓が停止して」=「死」んで、適正な措置を受け蘇生した人をゾンビだなどと云う輩はおるまい。脳死の人間をまだ生きているか死んでいるか等という議論は偉い人が決めるのでどうでもいい。魂だとか人格の死だとかもある。魂とは何か。経験値と記憶と思考の偏りなのだろうか。私から記憶が一切消えても、記憶を失う前の私を知っている人から見れば私は「生きている」のだろう。同じ名前の別の人間として。だが、失った記憶の私は「死んでいる」のかもしれない。『失う』ものの中には、取り戻せるものと取り戻せないものがある。
私は生きているのだろうか。もう死んでいるのかもしれない。生きながら生みながら死にながら廃棄しながら生きているのだろう。私が沢山死ねばそれは死だろう。私の指が損なわれたとして、私が余分な皮膚を削り取ったとして、それは死ではない。ビル街も人間の細胞もそんなに変わらないのだろう。おそらくは。