On the yellow guardrail

正字正かなユーザー刑部しきみの清く正しいつつましやかなブログ

人の心が判らない

他人の気持ちになって考える事は不可能なことである。私は他人ではない。AさんでもBさんでもねじでもTheoria氏でもない。だから、私には他人の気持ちがわからない。
私は、私が何を考えているのかすら今ひとつ掴み取れていない。もしかしたら考える端から忘却しているのかもしれない。こんなもんだから私自身の気持ちというものも良くわからない。
子供の頃はよく怒られていた。しかしながら何故怒られるのかはよく判っていなかった。
犬の躾に似ている、と思う。
つまり私は怒られると「Aという行為をすると怒られるという事を学習したので以後はAという行為をしない、もしくは他人の目に触れない所で証拠を残さず行う」となる。
怒られる理由の中には「危険である」や「不法行為である」という事があり、そういった事は割りとすんなりと受け入れられた。しかし、「こういう事をしたら**ちゃんが悲しむでしょ」「こういう事をされたら私は嫌だなって思うの」といった、いわゆる「感情の共有」を前提とした理由を提示されることがあり、私はその度に非常に当惑するのであった。
私は多分、ズレている。その上、あまり感情が動かない。
人が悲しむ事を同じように悲しめない事や、人が嬉しいと思うことを同じように嬉しく思えない事が多いのだ。だから「感情を共有出来る人々」の言葉は私にはなんの意味も無い。しかしながら、学習しない訳ではない。「大多数の人間はAという行為に対し不快感を抱く」というデータの蓄積が行われる。それが正しいかどうかはさておき、とにかく蓄積する。そして、そのデータに基づいて行動を起こす。もしくは、起こさない。自分の感情ではなく、データに基づいていれば基本的には怒られずに済む。被害を小さくする事ができる。
ではそのデータを補強するものは何か。本である。小説でも心理学の本でもかまわない。人の感情や習性、考え方の普遍的な癖を蓄積する。そうすれば大抵は「ズレ」ない。慣れれば考えなくても反射によって悲しくも無いのに悲しいふりをしたり、楽しくないのに楽しそうに振舞う事も可能だし、その逆は結構難しいけれども出来ない相談ではない。想像力と思考力を完全に停止させてしまえばいい。そうやって生きてきたし、こうでなければ人と人との間では本当に生きづらくて仕方が無い。
多分この生き方自体がとてもストレスになってごらんの有様なのだろうが、人と人とが関わらなければ生きていけない今の現状で、うまくやっていくにはこうするしか他に知らないし、そうでなければ、最悪私は人を殺しかねないので、無人島で一人で生活するしかないのだろうと思う。