On the yellow guardrail

正字正かなユーザー刑部しきみの清く正しいつつましやかなブログ

人生のワームホールへ虚無を投げ、代償に痛みを得よ

ようするに、芋づる式を狙う事が最良なのだろうけれども、私はそういう生き方ができない。
芋づるというより樹海のようで、カオスではないが、何処から何処までがひとつの存在としてひとつのカテゴリとして存在するのかが曖昧で、五感の互換性に不具合があって、何処が悪いのかわからない。何処も悪くないのかもしれない。所謂「悪いのは頭」的な話になってくる。手がぴりぴりちりちりしりしりと神経の先の先の先になったような気がして、少し手を休め、珈琲を飲み、そしてまた作業に戻る。PCの黒いキーボードやミラジーノの黒いハンドルと自分の間の距離をあまり感じない。何処まで私なのか。区切りが曖昧な粗雑なグリッドの海の中に四散した自分の死骸と思念の幽霊について考える。何処かで生きているのかもしれない、私の亡霊を殺す事は叶わない。私の指や眼球や心がそこにあったとしたら、朽ちないプラスチックを土の中に埋めるように、短期的に無意味、長期的には意味を成す、つまり放置を望む。
繋がらない思考については苦労をする事が多い。世の中が2bitでできていても私はその0と1の間に生きようともがいて、灰色のバグとして消去される存在なのだろう。
私は死んでゆくものにしか興味がない。死んでからでは遅いけれども、死ぬからこそ「良い」のだ。スリルだとかぬるい感情はない。死そのものに貫かれてしまっているから仕方がない。
必死で死を食い止めようとするのを、哀れと思うか? 素晴らしいと思うか? さて、答えを聞こうか。