On the yellow guardrail

正字正かなユーザー刑部しきみの清く正しいつつましやかなブログ

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# tinpo 『行旅死亡人のどこに魅力を感じるのですか?』

難しいですね。上手く説明できるかどうかわかりませんがやってみます。
魅力というか、行旅死亡人の公告は、私にとっては見ずには居られない世界なんです。勿論、自分がそうなってしまうかもしれないという危機感もあります。誰かが証明してくれないと、私は私であった証拠を残せないかもしれないという。死体は、自分の死因に関しては比較的雄弁なんですよね。やれ風呂場で死んでたのに肺から池の水が出ただの、首吊りの角度がおかしいから自殺ではないだのとか。でも、「貴方は誰?」という事になると、誰かが証明してくれないと難しい訳で。例えば病院にある治療のカルテだとか、身内の証言だとか。死んでしまったら、言い方が良くないけど、死体って所詮は「モノ」で、「モノ」になってしまったらもうその個体にはアイデンティティが無いんだなぁと。
で、行旅死亡人公告というのは「私は何処其処の誰さんですよ」という証明が出来なかった、或いはそれを意図的に隠蔽した人々の記録なんですね。例えばおそらくこうであろうという名前が分かっているのに、証明できなかった、或いは引き取り手が居なかった人、道端に塵のように捨てられた性別すら分からぬ嬰児、大金を持ったまま死んだ老人、数十円しか持たずに死んだ人、路上であるいは簡易の小屋で死んでゆくホームレス、森で海で山で川で線路で自宅でホテルで高層ビルで、あらゆる自殺に適した場所で自殺する人、状況的に殺されたのだろうと思料される人、身体的特徴から見てカタギではなさそうな人、その組み合わせはおかしいだろうという変ないでたちで死んだ人――名前は無くとも確かに生きていた人々の、最後の証言、最後の自分語り、それを検視或いは検死した人が読み取ったものが、行旅死亡人公告と言ったら変ですか。それを見たいというやや傲慢で不謹慎ともとれるような気持ちが、私に毎日の日課のように行旅死亡人公告を読ませているんだと思います。
余談ですが、行旅死亡人の公告は圧倒的に男性が多いです。